<ジャズ回想 第22回>コルトレーン~1963年のmy fevorite things
これは誰にとっても同じかと思うのだが・・・レコードを集め始めの頃はそんなに次々には買えないから、持っているレコードをそれはもう一生懸命に聴くのである。
1972年・・・僕のコルトレーン体験としては~
monk's music(abc Riverside茶色ラベル)
kind of blue(CBSソニー:1800円定価)
coltran(ビクター1100円盤:1972年)
two trumpets & two tenors(ビクター:1968年頃の1500円定価盤)
~と、こんな順でレコードを入手していった。そうして、これらの1枚1枚をたっぷりと聴いて、どうやらコルトレーンという人の音色を覚えたようなのだが・・・その頃、まだ my fevorite thingsを聴いてはいなかった。そして、どんなコルトレーン記事でも絶賛されていた<コルトレーンの my fevorite things>・・・それがどんな音(演奏)なのか気になって仕方ない。
そんなある日「それ」を聴くチャンスがやってきた。そう・・・FMラジオだ。当時はFMラジオの番組をカセットに録音するのが音楽ファンの習性だった。さっそく僕も録音した・・・<1963年のニューポートジャズフェスティヴァルのライブ演奏のmy fevorite things>を。そしてそれを何度も聴いた。
《そのFMエアチェック音源を聴きまくった後~1976年頃に買った東芝盤》
マッコイの叩き出す和音の繰り返しに酔い、ロイ・へインズの「ガシャッ・ガシャッ」と聞こえるドラムス(スネア)に体を揺らし、そして・・・コルトレーンのソプラノサックスが捻り出してくるような叫びに畏(おそ)れ慄(おのの)きながら、吸い込まれていった。
impulse期のコルトレーンの音楽というのは・・・atlantic期までの端正さとは決定的に違う何かなのだ。それは、僕の解釈では「没入すること」で、その良さが判る音楽なのだ。その音楽(この場合、「音」と言ってもいいかな)だけを集中して聴いていくと・・・自ずと忘我の境地になる。つまり、それがこのLPのタイトルにもなっているSelflessnessということなんだろう。そして何よりもコルトレーン自身がその境地に至るまでアドリブを続けていくと、それは止むに止まれぬ「叫び」となり・・・そうなのだ!それこそが「コルトレーンの唄」なのだ!コルトレーンが叫び終えると・・・ようやく演奏は終る。
ついに聴いた1963年の my fevorite things は、やっぱり凄かった。圧倒的に凄かったのだ!
my fevorite thingsという曲は、ミ・シ・シ/ファ♯・ミ・ミ/シ・ミ・ミ/ファ♯・ミ~/というシンプルなメロディーで始まる。その時のコード(伴奏の和音)はEマイナー(ホ短調)なのだが、曲の後半になると、その同じメロディに対し、コードがEメイジャー(ホ長調)に変わっている。そして、そのメイジャーの和音になった時、不思議な浮遊感が生じるようでもある。この曲・・・そんな具合にさりげなく凝った曲である。こういう曲を創ったリチャード・ロジャーズも偉いが、その曲の面白さを発見したコルトレーンも偉い!(笑)
そうしてコルトレーンは、この曲をジャズとして演奏する際、構成をシンプルにしたかったのだろう・・・テーマのメロディ提示が終った後、コーラス(元々のメロディどおりに小節が進行すること)を繰り返すのではなく、バックの伴奏には「Eマイナー/F♯マイナー」部分だけを延々と繰り返させる。そうしてその音パターンをバックに長いアドリブに入る。それを充分に続けると、一度、テーマの合わせをしてから、今度は「Eメイジャー/F♯マイナー」に移る。コルトレーンは、atlantic期の初演からこの構成を変えていない。同じコードを繰り返すモード的解釈の下、充分にアドリブを吹き尽くすことができるだけでなく、そのコードを短調から長調へ変えることで、サウンドに変化が付けられる。そうしてこの構成が見事だと僕は思うのだ。
さて、リチャード・ロジャーズ作の my fevorite things は、もちろんワルツ(3拍子)なのだが、この3拍子曲へのコルトレーンの解釈・・・これがまた独特なのである。
ピアノやベース、ドラムスの伴奏陣がワルツをごく普通に乗る場合、1小節3拍を『ダン・ダン・ダン』(ダン=1拍)と1拍づつ刻むのだが、(1拍目に4分休符を入れたとしても『(ウン)・ダン・ダン』) マッコイは決してそういう風には弾かない。コルトレーンがテーマのメロディを吹く場面のバックでは『(ン)・ダア~ダ(ン)/(ン)・ダア~ダ(ン)』と小気味良く和音を刻む。そして、先ほどのEマイナー部分で、マッコイがその付点4分音符を2回続けると・・・『ダ~ン・ダ~ン』と聞こえる。このパターンを基本として、後は休符を入れたりしてはいるが、もう頑固的に『ダ~ン・ダ~ン/(ウ)・ダア~~ン』(ダーン=1.5拍、(ウ)=半拍の休符、ダア~~ン=2拍半))の繰り返しなのである。
そうなのだ・・・コルトレーン(バンド)流の3拍子解釈は・・・「付点4分音符の連打」が基本なのである。(つまり 1.5X2=3 ということ)
そしてその独特の3拍子ノリが延々と繰り返される中、コルトレーンのアドリブ(ソプラノサックス)に集中していくと・・・なにやら催眠的効果も生じてくるようでもあり、さきほど言ったような「忘我」を味わうことになるのだ。
さあ・・・「Eメイジャー/F♯マイナー」に移る。それまでのマイナー調から一転して輝くような感じのメイジャー調の響きになると・・・コルトレーンは乗りに乗る。ソプラノサックスの音色とこのEメイジャーの響きが・・・不思議によく合うのだ。長いアドリブの最後の方・・・この辺りからがまったく凄い。ここからは「付点4分音符X2」の連続攻撃だ!
高い方から<シ~・ソ♯~/ミ~・ド♯/シ~・ソ♯~/ミ~・ド♯>と2オクターブかけて降りてくる『パア~・パア~/パア~・パア~』というフレーズを繰り返すコルトレーン!
そのフレーズにマッコイとギャリソンがここぞ!とばかり、その「付点4分音符X2リズム」に合わせてくる~『ダア~・ダア~/ダア~・ダア~』
う~ん・・・もうたまら~ん!これこそコルトレーンの唄なのだ!。歓喜の爆発なのだ!
しかしこの決定的場面で、ロイ・へインズは、そのダア~・ダア~(付点4分音符X2)を、なぜか合わせてこない。
エルヴィンならここは絶対にタメにタメた付点4分を乗っけてくるはずだ。僕の勝手な推測では・・・おそらくロイ・へインズは、敢えてそのエルヴィン風にしなかった・・・のだと思う。それは・・・ヘインズの意地かもしれない(笑)
しかし・・・その直後、コルトレーンがソプラノを打ち震わしたような歓喜フレーズの最後の段階に入ると、ここでロイ・へインズが必殺フレーズ(リズム)を繰り出してくるのだ~
『ダダ・ダダ・ダダ/ダダ・ダダ・ダダ』~3拍子3拍(4分音符3回)に対しての8分音符6回(スタカート気味)~これはもう、一瞬、テンポが加速してしまったかのようなノリなのだが、それはコルトレーンの唄いに感応したへインズの閃(ひらめ)き・・・そして、バンド全体の感じた歓喜への素晴らしいレスポンス(反応)なのだ・・・と僕は思う。ロイ・へインズもやはり凄い。
・・・そんな具合に、僕はmy fevorite thingsを何度も聴き、そしてそのたびに感動した。
考えてみれば・・・あの頃は「オリジナル盤」も「鮮度感」も「録音の良し悪し」も関係ない(笑)ただただ・・・その「音楽」を聴いて、そうして感動していたのだ。
まあそれを単純に言えば・・・ワカゲノイタリということだろうけど(笑)
そうして、今、50才を過ぎた自分が冷静に言うのならば・・・「コルトレーン」という人の音楽は、そういう「没入的」な聴き方に適している・・・とも思う。だから「ジャズ」というものを好きになってきたのなら、たとえカセットで聴いても、その「唄い」に集中していけば、オーディオや録音の拙(まず)さをモノともせず、音楽的な感動に導いてくれる・・・そんなタイプの音楽といえるかもしれない。
ジャズ好きになったからには(いや、そうなっていく経過として・・・)ある時期、コルトレーン音楽(impulse期1961年以降の)に、のめり込むことは、たぶん・・・あってもいい(笑)
もちろんなくてもいいのだけど、コルトレーンを聴く場合の、あのなんというか・・・管楽器の音に集中していく時の~聴き手である自分がその吹いている奏者の気持ちに同化していくような(たとえそれが錯覚だとしても、いいじゃないですか:笑)そんな気持ちを味わう・・・というのも、音楽の聴き方のひとつだと思うのだ。
僕の場合、そういう「コルトレーン聴き」を経て、実はその後、同じテナー奏者なら、ソニー・ロリンズの方により惹かれるようになっていったわけだが、その辺のことはこの記事で。
もちろん僕はコルトレーンを好きだし、今でもたまに聴くと、やっぱり気持ちいい(笑)
ただ僕は最晩年の「アセンション」や「クル・セ・ママ」まで聴き込むほどの本当のコルトレーン好きではない。
わりと聴くレコードも、prestige後期とimpulse初期に片寄っていて・・・苦手なimpulse後期だけでなく、なぜか、atlantic 時代もあまり聴いてない。
私見では、コルトレーンのatlantic時代というのは、どれもが意欲に満ちていてグループとして新しいサウンドをしてはいるが・・・なにか雰囲気が堅いというか、ガチガチに練習したような感じで、どれもが「習作」(impulse初期の充実ぶりから見ると)という感じがするのだ。ただ、その新しいグループサウンドを目指す姿勢~それまでの和音とは別の響きのする、いわば実に「コルトレーン的」なモード曲を造り上げていこうとする~というかその過程自体を好む方がいるのも当然だと思う。事実、サックスを吹く僕の古い友人は「atlantic期のコルトレーンが好きだ」と明言している。
《追記~その古い友人sige君からのメールで、彼自身のコルトレーン体験に触れた一節があったので、その一部を紹介したい。(以下斜体)
~(中略)~若き日(中三)にコルトレーン教と言うか、あの呪術と法悦以外、ジャズはありえないと頑なになっていたこと~(中略)~最初聞いたのがアトランティックの「マイフェバリットシングズ」であり、ビレッジバンガードセッションの「ソフトリー」であり、最後のアルバム「エキスプレッション」でしたので、混沌と浄化と感動という、まあだれでもはまる信者の道一直線だったわけです。ですから、大学一年のとき君に出会い、「コートにスミレを」を紹介され、楽曲を消化し創造するミュージッシャンとしてのコルトレーンという視点を得たことは、オーバーな言い方になってしまいますが、その後のコルトレーンに対する、いやジャズそのものに対する見方が少しずつ変わっていったように思っています。( モンクやミンガスや他にもいろいろあった)
あれから何十年と経ち、コルトレーンミュージックも僕の中では相対化され絶対的なものでなくなり、今はちょっと聞こうかぐらいの存在になってしまったけれど、あのころ夢中で、それもしがみつくように何か救いを求めるように聞いた体験は、どっかに自分の中で生きているのだろうと思います》
そうして、その(僕の耳には)ちょっとばかり堅苦しいatlantic時代を経た、impulse初期(特に1961年~1963年までのライブ録音ものは)になると・・・これがいい!
なんというか、理論や構成を学ぶ時期を突き抜けて、演奏そのものが音楽的にも流れが自然でとても聴きやすいのだ。
つまり・・・フォーム(形式)だけに拘らない精神というか、その枠を打ち破ろうとする精神というか・・・とにかくそういうパワー、意気込み、情熱みたいなものを感じるのだ。コルトレーンの音楽の(僕が感じる)美点とはそういうものだと思う。いや、それが一番素晴らしいのは、そういうspirits(精神)が、ただ教条的、あるいは観念的なものに陥らずに、音楽的にもダイナミックな抑揚のあるジャズのビートを保った範囲内での葛藤がある、というか・・・やはりジャズのビート感というのは・・・定型リズム、定型テンポの中での、あの伸び・縮みの感じが素晴らしいのであって(エルヴィン・ジョーンズの良さもそこにある!)そういう観点から見ると、やはり何らかの「枠」は必要なのである。その「枠」に対してのチャレンジ(音楽的な)であるからこそ、そこにダイナミズムが生まれて、それが(音楽的な)快感にもなっていくはず・・・と僕は思うのだ。
なにやら回りくどい言い方になってしまったが、つまるところ、僕にとっての素晴らしいコルトレーンというのは・・・どうやら1963年くらいまでに限定されてしまうようだ。
そうして、1963年7月のニューポートジャズ祭での my fevorite things は・・・こんな小理屈など軽くすっ飛ばして・・・ただただ、素晴らしい。
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