<ジャズ雑感 第25回>熱いべース奏者たち(C面)レッド・ミッチェル
レッド・ミッチェル~しなやかなビート感。 先日、sigeさんとyositakaさんという音楽好きの友人と音聴き会(この3人では30年振り)をやったのだが、その折、yositakaさんが、再三「レッド・ミッチェル」という名を口にするのである。そういえば、10年ほど前だったか・・・彼からの年賀状に「~最近はレッド・ミッチェルを~」という一節があったことを僕は思い出した。ジャズ好きが集まっても、なかなかレッド・ミッチェルというベース弾きの話しにはならない。彼はハンプトン・ホーズとのレコードでミッチェルを好きになったというのである。
そのことからも、yositakaさんが(クラシック中心かと思っていた)僕の想像以上にジャズに深く入り込んでいることが判った。そんなyosiさんからも大いに刺激を受け、またちょうど前回の《夢レコ》で、Mode盤~Warne Marsh Quartetで、少々、レッド・ミッチェルに触れたこともあり・・・そんな流れから、今回は、レッド・ミッチェルを<夢レコ>~熱いべース奏者たち(C面)として取り上げてみたい。
僕は、レッド・ミッチェルこそ本当の意味でベースの名手であると思う。1950年代後半からのアンドレ・プレヴィンやハンプトン・ホーズとの諸作に始まり、その後の50年以上も現役で活躍したので、彼の参加したレコードの数はとても多いはずだ。つまり彼には常に仕事のオファーがあったわけで、それはなぜかといえば・・・やはり「巧い」からだろう。そしてそれは単に「巧い」のではなく、その「巧さ」にイヤミがないというか・・・どんなタイプのジャズにも巧くフィットできるベースを弾くことができたからだと思う。
そういえば、レッド・ミッチェルを「嫌い」だという人に出会ったことがない。
ミッチェルという人は、ミンガスやラファロのように強く自分を主張するタイプではなく、しかし与えられた持ち場では、きっちりといい仕事をする・・・そんな名脇役的なタイプとも言えそうだ。そうだな・・・映画「7人の侍」での宮口 精二というか(笑)
僕がレッド・ミッチェルというベース弾きを意識するようになったのは、ジャズ聴きのだいぶ後になってからである。ジャズのベースでは、最初にミンガス、次にラファロ、そしてウイルバー・ウエア・・・そんな突出した、ある意味「判りやすい」個性にまず惹かれた。そしてその頃は、まだプレヴィンやホーズのピアノトリオものまでは手を拡げていなかったので、ミッチェルのベースを耳にするチャンスも少なかったはずだ。だから僕の場合は、レッド・ミッチェルというベース弾きの凄さにいきなり開眼したわけではなく、いくつかのレコードを聴いていると「あれ・・・このベース、ちょっといいな」と思う場面があって、クレジットを見ると、それがレッド・ミッチェルで、そんな繰り返しの内に知らぬ間に彼を好きになっていた・・・そんな風に自覚している。そんな「我、レッド・ミッチェルに開眼せり」レコードをいくつか紹介しようと思う。
Buddy Collette/Jazz Loves Paris(specialty)
《「僕のレコードリスト」によると、豊橋の隣の街~豊川市のプリオというビルでのレコードフェアで、1993年9月に入手している。この1987年の再発盤、音はかなりいい。もともとミッチェルのベース音は大きいとは認識しているが、それにしてもベース音がだいぶ大きめになっているように聞こえる。そういうマスタリングだったのかもしれない》
ジャズ聴きもある程度長くなると・・・ちょっと渋いレコードにも興味が湧いてくる。このレコードフェアへは、たしか歯医者で親知らずを治療した後に直行したものだから、その麻酔が切れ始めて痛くてしょうがない(笑) フェアにはいくつかの業者が出品していたが、ジャズのコーナーはわずかで、僕は根性でエサ箱を探ったが、ハードバップものに目ぼしいものが見つからなかった。それでも、ひどい歯痛をガマンして来たのだから、という気持ちもあり、ちょっと気になった2枚を買ったのだった。当時、まだ西海岸ものはあまり聴いていなかったので、こんな地味なものを買うということに、自分でも意外な感じもあった。それが、Jazz Roles Royce(fresh sound盤)と、もう1枚がこのJazz Love Parisだ。もちろんオリジナル盤ではなくて、復刻ものである。このレコードを聴いた時・・・僕はレッド・ミッチェルという人の巧さを、初めて意識したような・・・そんな記憶がある。クレジットを見ると、おおっ、その後に好きになったフランク・ロソリーノの名前もあるじゃないか。久しぶりにこのJazz Loves Parisを聴いてみた。
「バラ色の人生」la vie en rose~有名なシャンソンの名曲である。シャンソンというと・・・全くの余談だが、実は僕は「シャンソン」という音楽がちょっと苦手である。シャンソン曲のメロディは好きなのだ。「枯葉」「セシボン」「パリの空の下」・・・どれも素晴らしいメロディで、もちろん嫌いではない。僕が苦手なのは・・・いわゆるシャンソンでのあの唄い口~メロディをそのまま唄うのではなく、途中から「語り」のようになっていく~あの感じが苦手なのである。もちろん全てのシャンソン歌手が決まったように「語り」的な唄い口で唄うわけではないとも思うのだが、シャンソンというと・・・どうにも「ドラマティックに語る」あの演劇的なイメージが振りかぶってきてしまい・・・素直に音楽として楽しめなくなってしまうのだ。
それはそうと、このJazz Loves Parisなるレコード・・・シャンソンの名曲をジャズ風に演奏しているのだが、どうやらこの1曲「バラ色の人生」が、ミッチェルのフューチャー曲らしく、誰もが知っているあのメロディをベースが弾く仕掛けなのだ。ミッチェルは、ゆったりとした間合いであのメロディを、ゆったりと弾く。そして、この「ゆったりさ加減」が・・・実にいい(笑)
なぜ僕がこういう「ゆったりさ加減」に拘るのか・・・ちょっとした説明が必要かもしれない。
ベースという楽器では(弓弾きではなく、指で弾(はじ)くピチカットの場合)同じ音を、管楽器のようには長くは伸ばせない。
いや、正確に言うと・・・その音が伸びていたとしても、弾かれた直後から徐々に減衰していく運命にあるわけだ(笑)
声や管楽器の場合なら、その音を(その音の音圧を)ひと息で(もちろん、息の続く間は)維持しながら、しかもその音量を強くしたり、弱くしたりできる。しかし、ピアノ(打楽器)やベース、ギター(弦楽器のピチカットやピック弾き)では、これができないのである。自転車に乗っていて、ある時点からペダルを漕がなければ、徐々にスピードが落ち最後には止まってしまう。ペダルを漕ぐことなく自転車を少しでも先に進めようとした場合、自転車が止まりそうになったその時、身体を前の方に乗り出して、その勢いで少しでも進もうとするだろう。ジャズのウッドベースでも「伸ばすべき音」が必要な場合、その最後の方では、少しでもそのノート(音程)の音量・音圧を維持しようとして、その音程を押えている左手で、懸命にヴィブラートを掛けたりする。(ジャズの世界では、ヴィブラートの掛け具合、あるいは、掛ける・掛けないは、個々の奏者の好みで、特に法則性はないとは思う。
*以下追補~その観点でミッチェルのベースをよく聴いてみると、ミッチェルは音を伸ばした際に、ヴィブラートはほとんど掛けてないように聞こえた)
そんな事情もあり、ある曲のメロディをベースで弾く場合、なかなか「間」が持てないこともある(特にスローテンポの場合)ある音(音程)を充分に伸ばしてクレシェンド(だんだん強く)したいような気持ちでいたとしても、ひとたび、ベースから出たその音(音程)は、どんどん減衰していくのだ。それは、まるで意図しないデ・クレシェンドじゃないか(笑)
そんな時・・・たいていのベース奏者は気持ちが焦る(笑)だからそこで「倍テン」(テンポを倍にとって)にして、アドリブ風のフレーズを入れてしまうことも多い。それがセカセカしたように聴こえてしまうこともあるかと思う。
ミッチェルというベース弾きの良いところは、まず「音が大きそう」なことだ。強いピチカットから生まれるその豊かなベースの鳴り具合と、しっかりした左手の押さえにより充分に伸びるそのベース音。それでもやはり上記のように、スローテンポのバラードにおいては、メロディのある箇所では、音が消えていく場面もある。しかしミッチェルはその伸ばしたいはずの音が消えかかっても・・・全く焦らないのである。見事に堂々としているのである。
僕がレッド・ミッチェルを凄い・・・と思うのは、実はここなのである。音が消えかかっても、そんなことは全く気にしてない・・・ように聴こえる。それよりも、その時の「メロディの唄い」だけを意識して「唄の自然な流れ」を持続させようとしている・・・そんな風に聴こえるのだ。だから「間」が充分に感じられるし、時には、倍テン風なフレーズも入れるが、それはごく自然にその前後のフレーズと繋がり、なんというか・・・「唄の呼吸みたいなもの」が乱れない。そういう「唄い口」こそが素晴らしいのだ。これって・・・「楽器で唄う」ということにおいて、簡単そうで実は一番難しいことかもしれない。
ミッチェルのベースがテーマのメロディを弾く場面は、このla vie en rose「バラ色の人生」だけでなく、もうちょっと古い録音~Hampton Hawew vol.1(contemporary)でB面4曲目~these foolish thingsにも出てくる。こちらでも、先ほどの「唄の自然な流れ」というツボを押えたミッチェルの見事なテーマ弾きが聴かれる。
このようにベースがメロディを弾く場合だけでなく、ミッチェルは、もちろん他のスロー・バラードやスタンダードでのベース・ソロも巧い。彼はどんなテンポの曲でも、たっぷりと鳴る音量を生かして強く弾いてゆったりと伸ばすフレーズと、倍テンにして細かく軽やかに唄うフレーズとを、いい具合に織り交ぜてくる。そのバランス感覚が見事なのだ。だからよくあるように「ベースソロだけ別の世界」という感じにはならずに、それまでの演奏のビート感を保ったまま、ソロ場面ではベースもグルーヴする・・・という感じで・・・とにかくその演奏が自然に流れていく。この辺りの「しなやかさ」が、実に独特な味わいで、技巧的な意味でなく「ベースが唄っている」・・・そんな感じがするべーシストだと思う。
そしてyositakaさんがご自身のブログでも強調しているように、バッキングでのミッチェルも、これまた素晴らしい! 要はレッド・ミッチェルという人は、全て素晴らしいということだ(笑) そんな演奏も少しだけ紹介しよう。
Hampton Hawes/All Night Sessions vol.1(contemporary:1956年)
《1956年としては充分にいい録音だと思うが、僕の手持ち盤、僕の機械では、他のcontemporary盤に比べて、ベース音はややブーミーに膨らませた感じもある。録音はロイ・デュナンだと思うが、クレジットには、sound by Roy Duannという微妙な表現なので、ひょっとしたら録音は別のエンジニアかもしれない。この盤は1970年頃の米再発。盤はペラペラだが、A面にはLKS刻印がある。B面はなぜか手書きLKS》
このレコード、ライブ録音だが、右チャンネルから太っいミッチェルのベース音が聴ける。
vol.1のB面1曲目~broadwayは、かなりの急速調だが、ミッチェルはベースを充分な音量と余裕のノリで鳴らし切っており、素晴らしいビート感を生み出している。それからベース・ソロの場面でも、8分音符のフレーズを繰り出しつつ、バッキングと同じ4ビート的フィーリングを残そうとしているのか~つまり、4分音符4つ弾きも混ぜながら~その急速調でのビート感を維持しながら、見事なべースソロを演じている。素晴らしい!
さて、レッド・ミッチェルということで、僕が印象に残っているレコードをいくつか挙げてきたが、例によって初期の何枚かに集中してしまったようだ(笑)あと少しだけ簡単にコメントすれば・・・50年代のリーダー作~Presenting Red Mitchell(contemporary)とHere Ye(atlantic)の2枚は、ベースの名手というだけでない「ハードバップ的な覇気」を感じさせてくれる好盤だと思う。60年代のI'm All Smiles、The Seanceというライブ録音も好きだし、それから、うんと後期のリーダーアルバム(「ワン・ロング・ストリング」や「ベースクラブ」など)もいい。それからcontemporaryのアンドレ・プレヴィンとの諸作も、もちろん悪くはない。いずれにしても「音楽の自然な流れ」を造り出すミッチェルの持ち味は、どの時期のレコードにあっても、変わりはないと思う。
それにしても・・・僕がレッド・ミッチェルの良さに開眼したあの地味なレコード~Jazz Loves Parisを買うキッカケにもなったあの「歯痛」には、充分に感謝せねばなるまい(笑)
*2012年6月2日追記~コメント欄にて話題に上った、ミッチェルの日本のライブハウスでのライブ盤~ 《ケニー・ドリュー・ミーツ・レッド・ミッチェル・アット・歪珠亭(ひずみだまてい)タイトルは「とういん」》を紹介しているブログを見つけました。レッド・ミッチェルの熱烈マニアらしいmooreさんなる方のブログ~HOME SUITEのこのページをご覧ください。http://home-suite.blog.ocn.ne.jp/home_suite/2008/03/post_8da4.html
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